2月下旬から3月上旬にかけて
「何でもないです、どうしようもないんです私、どうしたらいいです」
頭の中で繰り返される弱気な心の渦はぐるぐると全身を巡り、毒が体を蝕むように侵食していく。
八方塞がり、四面楚歌。
誰も私を責めるものはいないはずなのに、世界から非難されている気分だ。いや、無関心の棘かも知れない。無関心?棘?何のことだ。分からない。分からないままぐるぐると蝕み続ける。
もう何が体を支配しているのか、私という生き物は何を待ち焦がれているのか、何を考えているのかという疑問が無意味に感じられていく。ぐるぐるぐるぐる回る毒と、日の浮き沈みが億劫になる。
カーテンを閉め、眠りにつく。
朝起きる前のメモ帳から
美しい思考、素晴らしい発言、そんなものは存在しないと頭の中で繰り返される。
目は閉じていても、弾ける電気信号の光によって内部に情景が映し出される。それは白く殺風景な一室であったり、青々とした草原、あるいは点々と物語にもならないような細切れの記憶である。いつしかそれらが大きな一つの大作になる事を心の隅で望んでは、敢えなく砂糖菓子のように消えていく。
こねくり回された思考もどきのなにかは、薄黒い憂鬱へと置き換わっていく。「爽やかな朝」という幻想は夏にしか存在しないようだ。今はただ暗く冷たい空の色だけが、カーテンの隙間から見えているのみである。
並盛り
少食は辛い。食べ物屋でメニューを見ている時、まず考える事は「食べ切れる量だろうか…」ということだ。本来美味しいものを食べて幸せな気分になるのが目的なのに、すぐお腹いっぱいになってしまって、まだだいぶ残っている目の前のご飯に対して悲しくなる。残せばいいのだが、この残り物を厨房の人が捨てなければならないと思うと申し訳ないし、せっかくお金を払ったのに何だか他の人より損をした気分になる。
この前東京に食べに行った三河島のラーメン屋では、並盛りを頼んだのに3分の2ほど食べたところで満腹になってしまった。あと少しだからと、なんとか完食したものの2時間後に嘔吐してしまった。参加したライブにも影響が出て、後半は会場を抜け出してトイレに篭っていた。無理をするもんじゃないなと実感した。
旅行の楽しみの一つには大抵ご当地料理や甘味を食べる事も入っているだろう。私も旅行に行く時にはどのお店で食べようかネットや雑誌で調べることがある。その時に口コミなどで「ボリューム満点!」の文字があるとその時点でその店を諦めなければならない。またこの前大阪に行った時は、有名なたこ焼き屋を二軒まわろうと計画していたが、一軒めで腹八分になり二軒めは行けなかった。6つ食べただけでお腹は満足してしまったが、私の心はまだ物足りない気分だった。悲しい。
その反動でよく、YouTubeで投稿者が大盛りの料理を淡々と食べている動画を見ている。二郎ラーメンやたっぷりのカレーを苦しい表情一つ見せずに、ただもくもくと食べている姿は、他人に置き換えて私の沢山食べたい欲求を満たしてくれる。
外食する時には少し緊張する。もっといっぱい食べたいなあと、満腹になりながらいつも思っている。
早朝出発
予約しようとしているゲストハウスに2日前問い合わせメールを送った。もうすぐ一人旅をする。問い合わせの回答次第ではまた泊まる宿を探さなければならないが、旅の計画はだいたいできた。
行く場所は京都・大阪、そして2日目に三重だ。三重とは言っても目的地は名古屋寄りなので伊勢神宮や志摩のような代表的観光地には立ち寄ることはできない。そこは少し残念だが、代わりに赤福をお土産として買うかもしれない。
京都・大阪は今年2回目である。前回の旅で京都では主要な神社や寺、大阪では道頓堀や串カツ、たこ焼きなどを堪能したので、今回は前回行けなかったところを行くつもりだ。しかし串カツはとても美味しかったのでまた食べる。
三重には進撃の巨人展を観に行く。本当は京都・大阪のみで2日目はのんびり帰ろうかと思っていた。しかし無理やり計画に入れてみたら行けそうだということが判明したので早起きして行くことになった。あの展覧会は青森やら大阪やら全国を回っているので、ひょっとしたら私の地元にも来るのではないかと思ったがきっと来たとしても来年度以降だろうし、来年度私はきっと地獄の中を生きていると思うので、心に余裕のある今行くべきだと判断した。これは最後の一人慰安旅行なので今行くべきなのだ。
旅行は楽しいし私は旅行が好きだ。計画を立てている時は時間を忘れて作業ができる。もしかしたら計画を立てている時の方が実際に行くよりも楽しかったり…。百均で買った旅ノートには今まで行った旅行の日程や感想が書いてあったり、駅や観光地に置いてあるスタンプが乱雑に押されている。とても愛着のあるノートだ。デジタルの方が書くのも楽だしすぐ確認する事が出来ると思うが、旅の計画をスマホで書く事はこれからも無いだろう。
色々書いたが、とにかく大きなトラブル無く旅行が遂行できるのが一番だ。万全の準備をして出発したい。
歌詞について思っていた事
メロディと一体化しているような良い意味で気にならない様な歌詞が好きだ。(歌詞の内容ではなく)
アジカンは良い例で、メロディと言葉の響きがうまい具合に合わさっているように感じる。
「夜のコール」という曲を初めて聴いた時、感動した。トントンとリズム良く歌われていく言葉とサビにかけて開けていくような感じが良い。
歌詞を見てみると、歌い出しの前半の部分、歌詞の文節の末尾は母音のoで統一されている。サビの <遠く> <行けないの> などの伸ばす部分にはaやoの口を開く音が比較的多い。
ボーカルの後藤さんがいつのインタビューだったか、ヒップホップ・ラップにハマっているというような内容の事を語っていたのを思い出す。意識的に歌詞に韻を踏ませる事により、言葉が自然に曲の中に溶け込んでいるのだと思う。
たまに歌詞に重点を置き過ぎている為なのか、言葉の響きとメロディがちぐはぐな、替え歌のような異物感のある歌詞になってしまっている曲もちらほら見かける。私はそういう曲はあまり好きではない。
その点洋楽は、当然ながら英語の響きは日本語のものとは違う上、歌詞の意味は調べない限り分からないため、ボーカルの声も演奏の一部分として聴くことができる。聴き終わった後に歌詞カードを見て、ああこんな事を言っていたのかと確認するのも楽しかったりする。
今日はツタヤでCDを10枚借りたが、まだ全て聴き終えていないアルバムがほとんどだ。iTunes に取り込む作業が地味に時間がかかるためである。インポートしている間、歌詞カードを読んでいたがその時に考えていた事をこうして書いてみた。オチも何もない文章になってしまった。
蓋を開けた
数年前、日本中は進撃ブームに覆われていた。それは私も知っていた。テレビでは特集が組まれ、本屋ではドカンと宣伝パネルがコミックの横に置いてあった。アニメ主題歌は紅白で歌われ、展示会には押し寄せる人々、数々の商品とのコラボも飽きる程見かけた…。しかし私は全く興味がなかった。手を出す気になれなかった。
ブームが起こる数年前、本屋の棚に進撃の巨人の試し読みの薄い冊子が置いてあった。私は何気なくそれをパラパラ読んで、読み終わった後には重くドンヨリとした暗い気分になっていた。冊子の内容としては超大型巨人が現れた所から、エレンの母が、食われる直前に「行かないで…」とつぶやいた後食われてしまうシーンまで。
今になって思うが、なんであの場面を試し読みとして抜き出したんだろう…。当時中学生だった私は、なんでこんな憂鬱で心が痛くなるような漫画を読んでしまったんだと後悔した。それ以来アンチ進撃の巨人として、どんなに世間が盛り上がっていようとそれを冷たい目で見てきた。
そして今になって
AbemaTV でアニメを再放送しているのをチラッと観て自分の中のイメージが崩れた。全話視聴しコミックを全巻集めサントラを買い、最近開催されている展示会に行こうとしている。
あの時、自分の中でシャットアウトせずにもうちょっとだけ深く突っ込んでいたら、あの盛り上がりの中行われていた様々な催し、きっと紅白もリアルタイムで観れただろうし上野の森美術館の展示会にも行けただろうなー、と少し寂しい気持ちになった。